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令和3年度1学期始業式・校長講話

■皆さん、おはようございます。

■この春休みは、みなさん大きな事故もなく、新型コロナ対策もしっかりやってくれて、陽性者も出ずに済み、本日このように令和3年度1学期始業式を迎えられたことを本当に嬉しく思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■さて、令和3年度が本日からスタートです。新年度のスタートにあたり、1つだけお話ししたいと思います。本校のルーツについてのお話です。

 ■本校は、明治32年に開校、122年の伝統を誇る専門学科の高校です。埼玉県立高校では、5番目に古い学校です。

■本校がスタートした明治32年頃、日本の産業の中核をなしていたのは養蚕業で、その発展のために創られたのが、本校のルーツである「競進社蚕業学校」であり、その土台、礎を築いたのが、校祖・木村九蔵です。本日は、その木村九蔵の話をしたいと思います。

 

■本校のルーツである「競進社蚕業学校」ができた122年前を更にさかのぼるり、今から176年前、1845年(江戸時代・13代将軍・家慶の頃)、木村九蔵は、現在の群馬県藤岡市に生まれました。(NHK大河ドラマ「晴天を衝く」の主人公、渋沢栄一の生まれた5年後)

■木村九蔵、当時の名前・高山巳之助(たかやま みのすけ)は、13歳の時、近所の養蚕農家から蚕の卵をもらい、自分の家の屋根裏で寝る間を惜しんでそれはそれは大切育てました。

■そして、その甲斐あって、蚕は周りの人たちが驚いてしまうほど、すばらしい繭を作ることができました。

■みなさんご存じとは思いますが、蚕とはさなぎになる際、糸をはいて繭を作り、その繭から絹糸をつくる訳です。しかし、とても弱い昆虫で人が育てないと生きていけないそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■気を良くした九蔵は、その後、別のところに住んでいた兄の高山長五郎のうちで蚕を協力して育てるようになります。しかし、今度はなかなかうまくいかず、みな死んでしまったそうです。蚕は湿気に弱く、「コシャリ」という白カビが付く病気にかかりやすく、そうなるとみな死んでしまうのです。

 

■兄・長五郎と九蔵は、困り果ててしまいました。それから、その原因を考えはじめ、長いことかかかったある時、はっとしました。兄の家と自分が育てた屋根裏との環境の違い、「湿気の違い」に気付いたのです。

■九蔵が蚕を飼っていた屋根裏の2階には、いつも暖かく、ちょうどよく乾いた空気があったのです。

 

■よい繭をつくには神頼みしか術のなかった養蚕農家の深い願いを胸に、九蔵はその後も研究と努力を続けました。

■遠くの名人を訪ねて話を聞いたり、養蚕の古い書物を読んだり、片時も蚕のことを忘れることはありませんでした。

■そして、1872年(明治5年)、九蔵28歳のとき、今までの研究の成果である一派温暖育(いっぱおんだんいく)という蚕の育て方を世に発表することができたのです。13歳で蚕をうまく育てて以来、15年の年月が経っていました。

 

■一派温暖育とは、蚕が丈夫に育ち、よい繭を作るために木村九蔵が考え出した育て方で、部屋を火力により温め、風通しをよくすることで、蚕を病気にかからないようにするという育て方です。

 

■九蔵は、この一派温暖育という方法を独り占めにはしませんでした。人々の幸せのため、一派温暖育を多くの人々に教え、広めようと思ったのです。

■そして、もっともっと多くの養蚕農家に一派温暖育を広め、丈夫な蚕を育てる技術を磨きたいと思うようになったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

■しかし、そんな九蔵の夢も一人では叶えられません。九蔵は、競進組(後の競進社)という養蚕を学ぶ人たちの会を作りました。会員たちは、炭火の使い方や桑の与え方、蚕を育てる家の改良の仕方などを九蔵から熱心に学びました。

■九蔵のそばで一派温暖育を学んだ会員たちは、「養蚕教師」となって人々のために遠い場所でも何度も足を運び、一派温暖育の技術を広めていきました。

 

■そのおかげで、蚕が丈夫に育ち、よい繭ができると競進社の評判は次第に広がっていきました。

■また、競進社が育てた繭が全国コンテストで一等賞となり、その名は全国に知れ渡っていきました。

 

■児玉駅の近くに「産業教育の発祥の地」という石碑があります。それまで自宅を使って養蚕の指導をしていた九蔵が、1884年(明治17年)、40歳の時に養蚕の技術を伝えるための「伝習所」を開いた場所です。

■伝習所では、実習をとおして養蚕技術を学べました。

 

■また、その近くに「競進社模範蚕室」という建物があります。九蔵が50歳の時に、養蚕の技術や工夫を余すことなく詰め込んだ建物です。無料で見学ができますので今度行ってみてください。

 

■その後、木村九蔵は、54歳で病でこの世を去りますが、九蔵の意志を継いで仲間たちが、伝習所を「競進社蚕業学校」と改め、実習だけではなく、養蚕に関する科学的な知識をも授業で学べるようにしました。これが本校のルーツとなったのです。122年前のことです。

 

■この学校で学んだ卒業生たちにより、一派温暖育の方法は全国に広がっていきました。そして、更に中国、台湾、朝鮮にまでも広がっていきました。

■本校のルーツである競進社蚕業学校は、競進社実業学校と名前を変え、その後、児玉農学校、児玉農業高等学校、県立児玉農工高等学校、そして、平成7年、現在の児玉白楊高等学校となり、現在に至っているわけです。

 

■本校、校祖の木村九蔵の多くの人々を幸せにしたいという願いは、国境、時代を越えて、今、私たちに受け継がれているのです。本校のルーツである競進社蚕業学校が、そのような思い出作られたことを私たちは、決して忘れてはならないのです。

■私は、校長としてその思いを受け継いでいる本校を誇りに思います。

 

■木村九蔵の思いを受け継いだ私たちの使命は、「産業教育発祥の地」である児玉地域の未来を担う、心豊かな、しっかりとした産業人になることです。

■みなさん、この児玉白楊高校の生徒であるということに、誇りと自覚をもって、令和3年度を悔いないように、全力で突き進んでください。私は校長として、それを全力で応援します。今年一年、よろしくお願いします。